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予がここに東山時代における一縉紳(しんしん)の生活を叙せんとするのは、その縉紳の生涯を伝えることを、主なる目的としてのことではない。 また代表的な縉紳を見出すことが至って困難であって見れば、一人の生活を叙して、それでもって縉紳階級の全部を被(おお)わんとするの無理なることは明白だ。 しかしながら予の庶幾(しょき)するところは、その階級に属する一員の生活の叙述によりて、三隅ともに挙げ得るまでには行かないでも、せめてこれによって縉紳界の一半位をば想知することを得せしめ、もしなおその上にでき得べくんば、当時の文明の源泉なる京都における社会生活の一面を、これをして語らしめようというにある。 しかしながら叙述の出発点を個人にのみとり、それから拡充して社会を説明しようとするのは、企てとしてはなはだ困難である。 ここにおいて予は便宜上この論文を二段に分ち、その第一段には、性質上結論であるべきはずの東山時代に関する予の意見を、先ず一通り縷述(るじゅつ)しよう。 しかして第二段に至って或る一縉紳の生活を叙してみたい。 結論の性質のものを前にするのは、冠履顛倒のやり方で事実を基礎として立つべき歴史家の任務を忘却したわけになるようであるけれど、一縉紳の生活をいかに綿密に叙述したとて、それのみで、時代の大勢を推し尽くすことは、とうてい不可能であって見れば、予の第一段は必ずしも第二段の結論ではなくむしろ序論の性質を帯びたものである。 これを第一段として先ず説くのは、第二段において叙せらるべき一縉紳の生活の背景を画かんがためである。しかして第二段においてなすべき叙述をば、たんにこれをして如上の背景を利用せしむるのみでなく、第一段の概括的評論と相反映し、少なくもその一部分だけでも立証させたいものだと思う。 読者あるいはこの論文をもって帰納によらざる空論なりとし、あるいは帰納と見せかけた演繹(えんえき)論だと評するかも知れぬが、予はひたすらに帰納をくりかえすことをもって史家の任務の第一義だとは考えておらぬのであるから、かかる批評はあまり苦にならぬ。 手品だと評せられるならば、それでも甘受しよう。ただ恐るるところは拙い手品の不成功に終りそうであることのみである。先ず第一段から始めよう。 因(ちなみ)に述べておくが予はかつて『芸文』第三年第十一号に、「足利時代を論ず」と題する一篇を掲げたことがある。 東山時代は足利時代の中軸であるからして、本篇とれと、大体の帰趣において重複を免れない。 しかしながらかつて論じたのは東山時代を主として睨(にら)んだ足利時代の総論で、本篇は足利時代を東山時代に総括しての論である。
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米は仰向(あおむ)きになった叔父の膝の上へ寝そべってそういった、そして叔父の鼻の孔(あな)は何(な)ぜ黒いのだろうと考えた。 「知らん、阿呆なこといえ、お父つァんはもう嫁さん貰(もろ)うてござるぞ、どうする、ん?」と叔父は覗き込んだ。 米は腹を波形に動かして「ちがうわい、ちがうわい。」といった。しかし叔父のいう事は真実のように思われて、もう父は帰って来ないような気がして来た。 母とさえ一緒にいる事が出来れば父の帰って来る来ないはそう心にかからなかった。 すると、黙って叔父の手の皮膚を摘(つ)まみ上(あ)げていた彼は急に母が昨夜男と寝た事を自分が知っているのを気使って自分の留守に死んでいはすまいかと思われた。 その中(うち)に涙が出て来た。で、草履を周章(あわ)ててはいて黙って帰ろうとすると、叔父は「何んじゃ米。」といった。けれど彼はやはり黙って表へ出ると馳け出した。 家へ帰った時母は鑵詰を米から受け取って「お前まアこの間着返(きが)えた着物やないか。」と睥(にら)んだ。彼の着物の胸から腹へかけて鑵詰の汁が飛白(かすり)の白い部分を汚していた。 母が自分を見たなら抱いてくれるとばかり思っていた米は何(な)ぜだか急に他家の母の傍にいるような気がした。 そして、身体をあちこちに廻しながら物を踏(ふ)み蹂(にじ)るような格好をして母を見い見い外へ出て行こうとした。「通(かよ)いは?」と母が訊いた。 米は忘れて来たのを知ったが悲しくなって来たので黙って表へ出た。 しかし、直ぐ金剛石のことを思い出すと裏へ廻って行って、夕闇(ゆうやみ)の迫った葉蘭(はらん)の傍へ蹲(うずくま)って、昼間描いておいた小さい円の上を指で些(ち)っと圧(おさ)えてみた。 すると、間もなく、姉が帰って来て、家の者らがちりちりに生活しなくてもいいようになると思われた。 しかし金剛石ではないと思うと金剛石ではないような気がして淋しくなった。 外が真暗(まっくら)になってから家の中へ入った。やはり来ていたのは刺繍の先生であった。米のその夜の夕餉(ゆうげ)の様は常日とは変っていた。 餉台(ちゃぶだい)は奥の間へ持って行かれたし、母が先生の傍(そば)へつききりなので彼は台所の畳の上で独人(ひとり)あてがわれた冷(ひ)やっこい方の御飯をよそって食べ始めた。 初めの裡(うち)は牛肉を食べたかったので、母が持って来てくれるまでに御飯を食べてしまわないようと少しずくかかって食べ出したが、何日(いつ)の間(ま)にかお腹が膨(ふく)れて彼が食べ終った頃、母が奥から米の傍へ皿を取りに出て来た。


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武家気質というものをそれなり歴史のなかのものと承認して、その心理の範疇のなかへ近代人としての鴎外が整理と観察の光りを射こんだ創作態度から云うと、この「阿部一族」は内容、構成、文章等最も傑出した作品である。 今日の私たちにとって、森鴎外のこういう歴史への態度は、おのずからいろいろのことを考えさせると思う。 「興津彌五右衛門の遺書」は、鴎外が人間の異常な行動のモメントとして、強烈な感銘を本人に与えた一片の恩義が猶よくその人の生命を左右する力をもっていることを、美と感じたロマンティックな創作動因に立っている。 封建の思惟をロマンティックな作者の精神高揚でつつんだものであった。 「阿部一族」では、そのようなロマンティックな要素も作品の一つの色彩とはしつつ、作者はぐっとリアリスティックに心理と経済の事情にまで広く多岐に踏みこんで、一人の君主の死が、武家社会に波及させた悲劇と生死の幾とおりもの姿を描き出している。 作者はこの事件をめぐる総ての人々の心理を、その時代のそのものとして肯定して描き出している。 阿部一族の悲劇は悲劇として深い同情をもって映されていて、そこに作者の人間性においての抗議や批判は表現されていないのである。 これは特に私たちの注意をひく点ではなかろうか。 鴎外が、この時代の悲劇はその時代のものとして、人々の感情行動の必然のモメントをもその範囲において描いたということは、鴎外が歴史というものを扱った態度の正当な一面であったと思う。誤った近代化や機械的な現代化はちっとも行われていない。 そのことは作品の自然さと重厚な真実性とをもたらしているのであるけれども、例えば「阿部一族」の読者は、精彩にみち、実感にふれて来るこの雄大な一作をよんだのち、満足とともに何とはなし自分の体がもう一寸何かにぶつかる味を味ってみたかったような気分に置かれることはないだろうか。 いかにも完成された作品であり、豊かな完璧な作品にちがいない。だが、もう一寸何か皮膚にじかにふれて来る何かがあってもよくはないか。 そんな感想にとらわれることはないだろうか。  鴎外は芸術家として生れ合わせた明治という時代の特質を、漱石とは異った組み合わせで身につけていた人であったと思う。 ロマンティックな要素、そしてその反面に根をはっている封建風なもの、この両者はそれぞれ独自なニュアンスをなして、云わばこの卓抜な二人の作家の正直さ、善良さ、真摯さの故に矛盾をも明かに示しつつ、生涯の実生活と作品とを綾どっている。 したがって両者の間に多少の差異の生ずることは、一に読者の諒察を願いたい。


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十四日に噂をきいた折は「半信半疑す」という感情におかれた鴎外が、つづく三日ばかりの間に、この作品を書かずにいられなくなって行った心持の必然はなかなか面白い。 一応の常識に、半信半疑という驚きで受けられた乃木夫妻の死は、あと三日ほどの間に、鴎外の心の中で、その行為として十分肯ける内的動因が見出されたのであろう。 夫妻の生涯をそこに閉じさせたその動因は、老いた武将夫妻にとっての必然であって、従って、なまものじりの当時の常識批判は片腹痛く苦々しいものに感じられたのであったろう。 興津彌五右衛門が正徳四年に主人である細川三斎公の十三回忌に、船岡山の麓で切腹した。 その殉死の理由は、それから三十年も昔、主命によって長崎に渡り、南蛮渡来の伽羅の香木を買いに行ったとき、本木(もとき)を買うか末木(すえき)を買うかという口論から、本木説を固守した彌五右衛門は相役横田から仕かけられてその男を只一打に討ち果した。 彌五右衛門は「某(それがし)は只主命と申物が大切なるにて、主君あの城を落せと被仰候わば、鉄壁なりとも乗りとり可申、あの首とれと被仰候わば、鬼神なりとも討ち果し可申と同じく、珍らしき品を求めて参れと被仰候えば、此上なき名物を求めん所存なり」という封建武人のモラルに立って、計らず相役と事を生じるに至った。 伽羅の本木を買ってかえった彌五右衛門は切腹被仰附度と願ったが、その香木が見事な逸物で早速「初音」と銘をつけた三斎公は、天晴なりとして、討たれた横田嫡子を御前によび出し、盃をとりかわさせて意趣をふくまざる旨を誓言させた。 その後、その香木は「白菊」と銘を改め細川家にとって数々の名誉を与えるものとなったのであるが、彌五右衛門は、三斎公に助命された恩義を思って、江戸詰御留守居という義務からやっと自由になった十三年目に、欣然として殉死した。三斎公の言葉として、作者鴎外は、「総て功利の念を以て物を視候わば、此の世に尊き物はなくなるべし」と云っている。乃木夫妻の死という行為に対して、初めは半信半疑であった作者が、世論の様々を耳にして、一つの情熱を身内に感じるようになって彌五右衛門が恩義によって死した心を描いたのは作者の精神の構造がそこに映っている意味からも面白いと思う。 当時五十歳になっていた森鴎外は、このような生々しい動機から我知らず彼の一つらなりの「歴史もの」に歩み出したのであった。 封建のモラルをそれなりその無垢を美しさとして肯して書いた第一作から、第二作の「阿部一族」迄の間には、作者鴎外の客観性も現実性も深く大きく展開されている。 芸術家としての鴎外が興津彌五右衛門の境地にのみとどまり得ないで、一年ののちには更に社会的に、その社会を客観する意味で歴史的に、殉死というテーマをくりかえし発展させて省察している点は、後代からも関心をもって観察せられるべきであろうと思う。



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